理化学研究所、Cleveland Clinic、IBMの合同チームが、12,635原子のタンパク質複合体を量子コンピュータで計算した成果で、2026年のACMゴードン・ベル賞のファイナリストに選ばれました。生物学的に意味のある分子としては、量子計算で扱われた最大規模とされています。受賞者の発表は11月のSC26です。
12,635原子という規模がどこから来たか
対象になったのはT4リゾチームとトリプシンという2種類のタンパク質です。前者は細菌の膜成分を分解する酵素、後者はすい臓でつくられて消化に関わる酵素で、どちらも生化学の教科書に載る定番の分子と言えます。
今回の計算が特徴的なのは、タンパク質を単体で宙に浮かせた状態ではなく、実際に結合する相手の分子(リガンド)とセットにし、さらに周囲を水で満たした状態で扱っている点です。この条件込みで、T4リゾチームが11,608原子、トリプシンが12,635原子という規模になりました。体の中で起きていることに近い形で電子状態を計算した、という意味づけになります。
比較対象として引き合いに出されるのが、同じチームが少し前に扱った303原子のミニタンパク質Trp-cageです。そこから系のサイズはおよそ40倍、精度は特定の工程で210倍改善したとされています。量子計算の化学応用で、この短期間に2桁規模の飛躍が起きたことになります。
量子と古典を分担させる考え方
使われている枠組みは、量子中心スーパーコンピューティング(QCSC)と呼ばれるものです。量子コンピュータだけで大きな分子を丸ごと解くのではなく、計算を小さなかたまり(クラスター)に分けて、簡単な部分は古典コンピュータ、電子どうしの絡み合いが強くて古典では手に負えない部分だけを量子コンピュータに任せ、最後に古典側でつなぎ直します。
分子を切り分ける手続きにも工夫が入りました。従来の手法では、分子のサイズが2倍になると必要な古典計算資源が25倍に膨らむため、トリプシンの規模ではそもそも切り分けが実行不能でした。そこでチームは、7から10オングストローム以上離れた場所の情報は量子力学的にはほぼ影響しないという性質を使い、各原子を中心とした球の内側だけを見る形に計算範囲を絞っています。
量子側の手法も更新されました。従来のサンプルベース量子対角化(SQD)に対し、探索空間を複数の部分空間に分けてから調べるTrimSQDという方式を導入し、量子コンピュータが集中すべき配置を見つけやすくしています。
156量子ビットのHeronと富岳・Miyabi-G
ハードウェアの構成も、この研究の見どころです。量子サンプリングは156量子ビットのIBM Quantum Heron r2プロセッサ2台で分担しました。1台はCleveland Clinicに設置された装置、もう1台は理化学研究所に設置された装置で、アメリカと日本の量子コンピュータを1つの計算に同時に使っています。実際に使われた量子ビットは最大94個で、9,200本の回路を100時間以上動かし、13億回分の測定結果を集めました。
量子コンピュータが返してきた部分空間の対角化は、古典側の2台のスーパーコンピュータが引き受けています。理化学研究所の富岳と、東京大学と筑波大学が運用するGPU搭載機のMiyabi-Gです。QPU(量子プロセッサ)、CPU、GPUがそれぞれ得意な工程を持ち寄る構成になっており、量子計算が単独の装置ではなく計算基盤の一部として組み込まれ始めていることが分かります。
なお、この手法が現時点で最良の古典手法を上回っているわけではありません。IBM側もその点は明示しており、量子コンピュータが今日の科学研究で実際に使える道具になったことを示す段階、という位置づけです。
手作業のデータ移送を消した9月の追加成果
5月に公開された当初の結果に対し、9月には続報が出ています。分子どうしがどれだけ強く結び付いているかを表す結合エネルギーの計算精度が、さらに改善されました。創薬の文脈では、候補となる化合物が狙ったタンパク質にどれだけ強く結合するかを予測できるかどうかが要になるため、ここの精度は実用性に直結します。
もう1つが、理化学研究所の新しいGPUスパコンROQUOでのワークフロー検証です。従来はQPUと古典機の間でデータを人手で受け渡す工程が残っていましたが、CPU・GPU・QPUをまとめて制御することでこの手作業をなくし、転送に伴うミスと待ち時間を減らしています。研究者が使える形に近づいた、という意味で地味ですが重い改善です。
研究を率いたCleveland Clinicのケネス・マーツ氏は、この結果を夢に見るような出来事だと表現しています。今回開発された手法は、IBMが2029年に予定する誤り耐性量子コンピュータIBM Quantum Starlingにもそのまま移せるとされており、装置の世代が変わっても積み上げが無駄にならない設計になっています。
まとめ
12,635原子という数字だけを見ると規模の競争のように映りますが、中身は量子と古典をどう分担させるかという設計の話です。日本側では理化学研究所の富岳とROQUO、東京大学と筑波大学のMiyabi-Gが計算の主要部分を担っており、NEDOと経済産業省の量子・スパコン連携プロジェクトの成果でもあります。受賞の可否は11月15日から20日にシカゴで開かれるSC26で明らかになります。
