理論物理学者から突き付けられた「AIには解けないはず」という挑戦状に対し、Anthropicの研究チームがAIモデルのClaudeを使って応じました。数十年かけて積み上げられてきた素粒子物理学の計算記録を、約1万6,000円〜31万円程度のコストで塗り替えたことが明らかになっています。

元物理学者が投げた挑戦状

きっかけを作ったのは、かつて理論物理学者として研究していたブロガーのマット・フォン・ヒッペル氏です。同氏は自身のブログで、AI企業に対してある挑戦を持ちかけました。対象に選んだのは「振幅理論」と呼ばれる素粒子物理学の一分野で、素粒子同士がどのように反応するかを予測する「散乱振幅」という数式を扱う領域です。

散乱振幅の計算は非常に複雑なため、物理学者は通常、相互作用の複雑さを示す「ループ」という単位で計算を打ち切った近似値を使います。実際の計算では2ループ止まりがほとんどで、3ループに達する例はごくわずかしかありません。世界的に知られる素粒子物理学の高精度な予測の一つでも、5ループの計算が使われている程度です。

フォン・ヒッペル氏が指定したのは、実在の素粒子ではなく計算手法を鍛えるための仮想理論「N=4超対称Yang-Mills理論」を、9ループまで計算するという課題でした。この理論は超対称性という仮説に基づき、既知の素粒子ごとに4つの対になる粒子を想定する特殊な設定を持ち、実際の物理現象の説明には使われませんが、変数の組み合わせが絞られるため計算手法の検証に向いています。

AIが2種類の手法で計算を完遂

Anthropicの物理学者2人が8月末にこの課題に取り組みました。使用したのはClaude(Fable 5.1)で、研究向けに構築された実行環境「Claude Science」上で動かしています。与えた指示はごく簡潔なもので、6粒子の散乱振幅を9ループで計算するよう伝えたのち、数時間おきに進捗を報告させながら継続を指示し続けたといいます。

Claudeは2つの異なる手法でこの計算をやり遂げました。1つは従来から使われてきた「ブートストラップ」という手法で、あらかじめ想定される答えの形を絞り込みながら、既知の制約条件と照合して唯一の解を導き出す方式です。Pythonの数式処理ライブラリSymPyを使ったこの計算には、CPU 96個を1週間動かす規模の計算資源が必要で、コストは約100ドル(約1万6,000円)にとどまりました。もう1つは、別の関連量である「フォームファクター」を経由する間接的な手法です。利用者が実際に支払う金額としては、Claudeを長時間動かす分の推論コストが主な要因となり、合計で1,000〜2,000ドル(約16万〜31万円)程度になるとされています。

計算結果は10万7,000個を超える非ゼロの係数から成り、データは100メガバイトを超えるファイル8本に分かれる規模になりました。

SLACの専門家が独自に検証

この結果を検証したのは、SLAC国立加速器研究所とスタンフォード大学で素粒子物理学と天体物理学の教授を務めるランス・ディクソン氏です。ディクソン氏はこの分野の先駆者の一人で、これまで人間として8ループの計算に到達した記録を持っていました。同氏はAnthropicから連絡を受けた9月1日から約2週間かけて、Claudeが直接導いた9ループの振幅を、自身の研究チームが長年扱ってきたフォームファクターに変換する形で検証作業を進めました。

ディクソン氏によると、この計算の枠組みは非常に繊細で、途中の手順に一つでも誤りがあれば結果全体が崩れてしまうといいます。文書化されていない細かな技術的判断も多く含まれるため、Claudeはそれらのコードをゼロから組み上げる必要があったとのことです。同氏は検証作業を通じて、Claudeが自身のチームが2019年と2023年に発表した論文を、共同研究者以外の誰よりも深く理解しているとの印象を持ったと述べています。

なお、Anthropicがフォン・ヒッペル氏に連絡した数日後、北京の中国科学院に所属するソン・ヘ氏の研究チームも、9ループの計算のうち「シンボル」と呼ばれる一部分を独自に導き出していたことが分かりました。ソン氏のチームは制約条件の一部算出にAIモデルのGPT-6を活用したものの、計算全体の枠組みは人間主導で構築したとされています。人間とAIの双方が、ほぼ同時期にこの難問の一端に迫っていたことになります。

まとめ

フォン・ヒッペル氏はこの結果について、AIが誰も知らない新しい計算原理を発見したわけではなく、既存の手法を人間が想定していたより多くの計算資源で走らせただけだと分析しています。それでも、専門家が「予算的に不可能」と考えていた課題が実際には解けることを示した点は大きな意味を持つといいます。同氏は今年3月ごろのAIが学生レベルの物理課題を人手を借りながらこなす程度だったのに対し、9月には最前線の計算を人間の細かな指示なしにやり遂げたことから、この数か月で技術が着実に進歩したとの見方を示しました。ディクソン氏も、自身の検証体制がAIによる候補解を確認できるよう既に整っていたため、今回の結果に動揺はなかったとしつつ、AIが物理学の研究現場に食い込んできた現実を率直に認めています。

参考: [1] https://www.anthropic.com/research/yes-claude-can-do-nine-loops

※1米ドル=156円換算(2026年9月26日時点) ※サムネイル画像はAI生成のイメージです